はじめに
最近、複数の有名人が差別的な発言をしたということで騒がれています。
でも、今に始まったことではなく、最近は、誰もが気軽に発信できるようになり、継続的にそのような有名人の差別的な発言が取り上げられていますね。
私自身、弁護士ですが、差別と闘うような事件を扱っているわけではありませんので、決して立派なことは言えないのですが、差別について今思うことを書き留めておこうと思いました。
これまで育った環境
正直なところ、私自身が小さいころ、大人たちは当然のように差別表現を使っていたような気がします。
昔の漫画やテレビを見てもそうですよね。自分の祖父母の世代も、当たり前のように、(今、振り返ってみると)差別発言をしていたように思います。
ですので、私自身も、小さい頃から、それこそ30歳になるまで、特に悪いと意識せず、おそらくは差別的な言動を(悪いものだと認識せず)受け入れており、知らず知らずのうちに、差別的な言動もしていたのだと思います。
大人になって
私は、大学の学部も理系で、教養科目というのも取りましたが、特に「差別」というものについて意識して勉強する機会はありませんでした。機会がなかったというか、不勉強でした。
30歳になって、ロースクールに行くようになって、憲法という科目で、はじめて「平等」という概念について勉強する機会を得ました。
「へー、そんなことでも『差別』と評価されるのか。」
と少し驚いたのを記憶していますので、自分自身が知らず知らずのうちに差別的な考え方を持ち、使っていたことを認識するに至りました。
ロースクールで勉強したおかげで、差別についての意識が強まりました。
弁護士になって
刑事弁護が好きになり、弁護士になってから、ずっと定期的に刑事事件を扱ってきました。ちなみに、刑事弁護が好きになったのは、単純に、適正手続きの中で、依頼者が主張したいことを徹底的に主張するというのが好きということからで、「人権が大事」とか言った認識ではありませんでした。
これまで、接点がなかった境遇の方と接する機会を得ました。何十人もの外国人の被疑者・被告人をはじめ、差別をされてしまう可能性の高い方たちと話をする機会を得ました。
感じているのは、犯罪をしてしまった人とは言え、ごく普通の人であるということです。
強いていえば、育った環境に恵まれなかったとか、ある出来事を機に「下り坂」になってしまい、やむを得ず、あるいは、自暴自棄になって犯罪に手を染めてしまったという人たちでした。
被疑者・被告人になった方は、割合的に言えば、生活保護をもらっている方が多く、また、病気や精神疾患を患っている方も多いです。
でも、大半の方とは、通常のコミュニケーションがとれ、ごく普通の人たちです。
警察署での被疑者との接見は、最初のころは非常に緊張していましたが、今は初対面の人でも、何も緊張せず、話せるようになりました。
被疑者・被告人の方と、後に、友人になった人もいますし、そこまではいかないにしても、別件での民事事件の依頼を頂くことも増えました。
話は変わって、事務所から2年、ドイツへ留学させて頂く機会を得ました。初めてといっていいくらい、様々な出身国、民族の外国人と普通の話をしました。
正直に申し上げると、私、小さい頃から外国人が苦手でした。多分、中学のときに、語学研修でオーストラリアに行った際、(中学生とはいえ)自分の英会話が全然ダメだったのと、若い頃は内気なところがあったので、同年代のオーストラリア人とうまくコミュニケーションが取れなかったことがトラウマになっていたのだと思います。
外国人は、怖い、何考えているか分からない、自分を見下しているのではないか、という印象を持ってしまい、それが続いていました。いくら英語を勉強しても、英語の成績が上がっても、英語はともかく外国人は苦手という意識がありました。
でも、ドイツに行って、様々な国の人と話をし、どうも世間で言われているような偏見は全然ないことに気が付きました。個性や特徴はあれど、みんなただの人間でした。
ドイツに居た際に、自分自身が一切差別を受けなかったかと言えば、正直嘘になりますが、それでも、「相手は自分(アジア人)のことを知らないから、そういう行動に出てるんだろうなぁ。」くらいにしか思いませんでした。
相手を知ること
差別というのは、①自分とは違う、あるいは、②自分とは(物理的、心理的に)距離のある人に対して、生じる、向けらるような気がします。
知らないものには偏見を持ってしまいますし、遠ざけたくなるというのは、人の通常の心理かもしれません。
被疑者・被告人、生活保護を受給している人、病気を患っている人、外国人、異性・・・。話せば、普通の人たちです。
私は幸い、ロースクールで憲法の勉強をすることで、机上での差別という概念を勉強し、また、実務に出てからは、刑事弁護を仕事とし、留学して外国人の方と仕事をする機会にも恵まれ、自分と他人とは色々違えど、ただの人間だと実際に感じることで、差別の意識がだんだん薄れていったのだと思います。
究極的には、自分と違うところも、全てはその人の「個性」ということで、何か、カテゴライズして、偏見をもって差別するということが間違っていることを肌で実感できたのです。
もっとも、差別というのは非常に無意識に人々の中に存在しているので(私自身も、小さい頃から否応なしに差別的な考え方を無意識に取り込んでしまっている。)、これを完全に排除するのは難しいのだろうと思います。
ですので、生意気にも、刑事弁護や留学を経て、差別というものがいけないことだ、間違っていることだと、実際に認識できたと言っても、決して油断はできないのです。
ここまで書いた文章の中に、差別的な表現は無かったでしょうか。自信がありません。一度読み直して、投稿したいと思います。それでも差別的な発言が含まれているかもしれません。)。
なお、有名人の差別的な発言というのは、別観点で言うと、自分自身が売れる、売れた状態を継続するために、過激な言動に走ってしまうという性な気がします。本心以上の過激なことを言ってしまうのでしょう。
ユーチューバーが再生回数を稼ぐために、過激なことをして、時に逮捕されたりすると言うのと同じです。
しかし、後で、間違ったことに気がついて真に謝っているいるのでしたら、許してあげましょう。
皆様も、きっと、100%と差別と無縁かと言えば、自信がないのではないでしょうか。差別というのは、勉強して、経験して、だんだん取り除いて、そして、人間として徐々に進歩していくものだと思っています。
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